昭和43年2月29日  夜の御理解  大坪かよこ

  
 仏教の言葉の中に、縁無き修行、度し難し、私はこれはあの、金光様の信心はそうじゃない、というふうに今まで言うておったんですけれども、やっぱり同じだと、ね、金光様のご信心でも縁なき修行は度し難い。ですから、あのなるほど天地乃親神様は、信心のないものにはおかげをやってあると仰る意味合いのおかげは別ですね。けれどもそのお互いが、縁を頂いて、その縁にすがって、その助かっていく道が開けていくのでありますから、やはり縁のない修行、度し難いというのをお道の信心でいうてもおんなじような事をいうのではないかと思うですね。
今日はあの、夕方、ちょっとあのテレビ、したら誰か付けっぱなしにしてるんですよ。 それをま、前を通っただけでこう、時に見たんですけども、ちょうどなんか、ニュースがあったんですよ。それにあの東京のですね、なんか小学校かなんかちゅてました、女の方が、その子供二人殺してですね、生まれたばかりの赤ちゃんを殺してるんです。そしてその、ゴミ箱の中に捨てた。そしていろいろ調べたところが、何年前かにもやっぱり同じようなことを犯しておったという、その罪に問われるわけでございましょうが、そんなあのほんとにその、それこそもうだーれもこの、闇から闇に葬られていくのでございますからね。
それこそ念仏ひとつ唱えてやる者も無かりゃ、お経一つ上げてやるやる人もなかった、とこう思うんですけれども、結局縁なんです、私がそれを聞いた見たという縁が生じた。
ね、私は可愛そうなことをしたな、天地乃親神様に対してそのことををお詫びさせていただいたり、またはお願いさせて頂いたりしてまあ、させて頂いたんですけれども、今晩・・?の村上さん・・?二従妹になりますか、の御霊様がその小さい子供もさんが、立ち日だ、そいで、あのお願い致しますというて、・・ましてから、大体二十七日なんですけれども、今晩ちょっと、その今後そのことをお礼申し上げると同時に、今日先ほど、私が見てきたその二人の嬰児の、小さい子供のその御霊様のことも合わせてお願いさせていただいたんですけれどもね、もうほんとに途端に両方の肩が、もう凝って凝って仕方がない。痛い。
ね、確かにこの縁のない修行は、そうようなことは、世の中にずいぶんあっておりましょうけれどもですね、それこれはいかにも仕方がない、けれども私が、そこんところだけを聞いたり見たりしたという事なんです。縁がでけた。ね、そこに天地乃親神様はこの縁を、この縁によって、お前の信心によって、その嬰児たちの御霊を、なんであれま、天地乃親神様へのお詫びも、お礼もまた、さして頂かして頂くわけなんです。
ね、確かに縁のない修行は度し難い、お釈迦様が仰ったけれども、やはりお道の信心でもだからおんなじことが言えると思うですね。
・?皆さんのようにです、もうこうした縁を頂いて、合楽のお広前に御神縁を頂いて、そして、私というその取次者に取次を願って、日々おかげを受けて行くというような縁なんかは、大変な実をいうたら縁だと思うんです。
ね、だからその縁を縋り、縁に頼り、私はその縁がですね、いよいよ有り難い縁になっていかなければならない、ために、神様がね、様々なお働きかけを下さるのです。
今日そこの中村の徹美君が帰って参った。先日、自動車の方へ就職してまいりまして、しして今日は、卒業式かなんかのために、帰って来た訳でございますけれども、いまここでそのお届けをするんですよ、あちらへ行ってから、すぐまあ、ほんとに御神夢だろうと思うお夢を頂いた。御神夢どこじゃないと思うですね。それにそのどういうような、私は思うんですがね、最近、方向を変えよと、ね、還元の生活、ね、そういうようなその今、合楽の信心がですね、そのまま広島に居る徹美さんの信心の上にはっきり現れておるということなんですね。またそしてそういうおかげを受けようとする働きが、そういう縁という一つのルートを通って、徹美さんの上に現れて居るということなんです。
ね、そりゃもう金光様、親先生、いつもそういう願い。今日も、敬親会でございましたから皆さん、あの雨の中にみな集まってまいりましたが、?さんところのおばあちゃんも来とります。してここでお届けをすることが、徹美が、先生あちらに参りましたけれども、あの人がね、若いですけれどもあれだけ熱心にあの信心させて頂いて、修行して行っとりましたけん、ほんと私は、安心しています、ていうとる。
他のおばあちゃん達が聞いてから、それは大変その、ほんなことね、若いもんでん信心があるなら、どげん離れとったちゃ、心配せんでんよか、ちゅてから、言うておりますようにです、ね、その神様のお働きが、その遠いも無からなければ、近いもない、ほんとに頼む心に隔てなく祈りさえすれば、その縁のルートというものは、通うて来るね、おかげも頂けるだろう、なら、合楽の信心から遅れることもない。夢の中にでも教えてくださった。ね、それこそ、最近の合楽の信心を浮き彫りにするように、夢のなかにはっきり頂いておりますね。
還元とか方向を変えるとか、神様が喜んで頂けれる、ね、信心。ね、そういう方向へお互いが信心の向きを変えなければいけない、ていうようなこと頂きました。でまあ、御理解にカーキ色のね、毛糸の肌じばんをね、今度先生が、今度帰るときには、親先生にお土産にもって帰ろうというお夢でした。
ね、皆さんもご承知のように、カーキ色というのは合楽の色とさえ言われえております、ね。もう実をいうたら私に一番嫌いな色だったんですよ。
ね、それが好きになろうと勤めたわけでもないのですけれども、私の心の中に段々、いうならば信心の心が豊かになってくるとです、もう好きも嫌いも無くなってくるんです。
そしてむしろ今まで嫌いだったものがです、こう、とりわけ、こう好きなような感じになってくる。信心ちゃ有り難いですね。あの人の、も、顔見るとも好かん、こげんな物は嫌、というのじゃなくてです、もうあれもこれもがおかげに見えてくるんですよ。自分の心の状態が有り難いことになってくると。ね、だからあれも好かん、これも好かん、そげな色は嫌というのは結局自分の心の貧しさというか、信心がそこまで育ってないこと知らなきゃいけませんですね。しかも、私が最近ですね、神様が喜んで頂くということは、ね、どういうようなあり方になったら親先生が喜んで下さるじゃろうか、ということに、で、金光大神にも通ずる、神様にも通うのだというふうに、そういう方向・・?
私が今思うておること、私が今行のうておること、ね、それが一つ一つ、はあ、こげん時は、はあ、親先生ならどうなさるか、親先生ははたしてこういうことを喜んでくださるだろうか、苦い顔をなさるのじゃなかろうか、というようにですね、私は、その神様へ信心の一つの方向というか、神様が喜んでいただけれるための信心をそういう表現で教えておられますね。次にはですね、お魚を獲って、小さいこのフナゴを獲って来た。ところがね、それがそのうなぎになった。こんだうなぎが、金魚になったというようなそのお知らせだった。
ね、小さいフナ、これはま、川の魚を、お知らせは全部お徳と仰るですから、お徳、ご神徳です、人間はこの御神徳を頂かなければ人間の幸せは、も、絶対あり得ません。
ね、天地の信用なんです。ね、ま、小さいながらもというか、若いながらもです、ね、、ほんとにご神徳の何たるかも味はよう分かりませんのだけれども、先生が口を開けば、しっかり信心してお徳を受けにゃいかんよ、お徳受けにゃいかんよというそのお徳を受けるための信心やら、修行やらが、こう成されて行きよるということ。
まだ十代の徹美君の場合なんかです、ね、あのくらいでお徳を受けるということに、また与えてもくださるまい。はあ、この世は金さえあれば、いやこの世だけではない、いうなら徹美君なんかも、金も十分欲しい欲しいと思うだろう、だから良い良い就職口を願いもする、給料の高いところを願いもする。そして誰よりも、余計に頂きたいという願い、これは誰でも同じだろうとこう思うです。
ね、それはただ非常に頂きにくいし、うなぎちゅうのはつかみにくい、いただきにくい、ね、だから本当のその、徳を頂いてから、受けゃよか、そういう信心さえしてそういう信心の基礎、最近私がおかげ急ぎをするなとこういうでしょう。
ね、そのことはそのお夢の中にあるでしょう。おかげ急ぎをするな、還元の生活、ね、神様が喜んで頂くことのために、方向を変えよ、その全てがですね、も徹美君、広島で頂いたそうです。ね、いわゆる合楽の信心を、遠く離れておるけれども、もう身近に感じられるように頂いておる。ね、そしてそれが、ね、ふなごやら金魚ということは、これはあの、金銭のお繰り合わせと頂きますけれどね、お金の徳、徹美さん、今先生が言うようにです、ほんとに方向を神様の方へ向け、おかげ急ぎをせず、まだ若いんだから、ね、とにかく、そのおかげの頂けれる時期までしっかり信心の修行をしとこうという信心、ね、ところがです、それが今度はみんな飴玉になっとるところを頂いた。
ね、だから、今徹美君達が頂くおかげなら、飴玉のようなおかげであろうとこう思う。
それはまあ、言うならば、はあ、やっとおかげ頂いたとこう思うことはです、そりゃ神様のおかげがちょっとしたおやつのようなおかげ、ね、それでもやはり、まだおやつ欲しさとか、ね、おやつ頂くことが、ね、有り難い。神様のおかげをそういうようなことから、分からして頂くと同時に、ギリギリはやはりお徳を積んでいく信心とは、神様が喜んで頂くための信心、いや親先生が喜んで頂くような信心を頂こうとこういつも心の中に願い続けることなんだ。
ね、どうぞ皆さん、縁というものがいかに有り難いものであって、その有り難いものがいかにありがたいことに育てさせて下さろうとする働きがあるかということが分かるでしょう。縁は異なもの味なもの、ね、ただ縁が異なもので終わったんじゃ詰まらん、ほんに若い時分に合楽にしっかり参った。もうこの頃、久しゅう金光様も唱えんごつなった。これは縁は異なものです。ところがです、ね、高校時代に一生懸命、学生会で信心の稽古をさせて頂いた。それが今もこうやって持ち続けられる、信心させて頂く、しかも、神様は私にどうぞしっかり信心をして修行をさせて頂いて、ね、お徳を受けてくれよという、そういう信心を、しかも今合楽の信心の歩みに合わせて、ね、ここで今言うてる全てのことが中に入ってるでしょうが。
今、合楽全体が、その方向へ方向を向けておるそういう信心がです、徹美君のそのご神夢の中に現れておるでしょうが。
そこにね、神様がね、縁のなき修行は度し難いのだけれども、一度縁がでけたらです、もうどーか、助かってくれよ、助かってくれよという働きがあるということをお互い知らなければいけません。
ですからそれを受けて立たなきゃいけません。ね、神様のおかげというものがですね、まあ、おやつ的なおかげも必要なのです。
ね、ですから、そういうおかげも頂きながら方向を神様の、いわゆるほんとの合楽の信心というかね、合楽が今、全部全信者が、方向を変えよう、それぞれの信心なりに方向を変えての信心ということに、遠く広島に離れておっても、その生き方さえいきゃ、ね、親先生が一番喜んで頂く信者になろう、親先生に喜んで頂けるような御用頂けれる私になろう、もうここ一つに焦点をおいときゃいいんです。ね、それは、必ず小さいふなごも、ね、いわゆる大きいふなにも鯉、鯉の徳といったようなことにもなっていくだろう。
ね、それもおかげ急ぎをしちゃならん。ね、みっちりに信心のけいこをさせて頂いて、徳を受ける。いわゆる徳の基礎作りをです、若いときにしっかりさして頂いて、とこう思う。それもなら、縁のない衆生には、度し難いでしょうが、皆さん。ね、例えばなら徹美君の同輩が九州から三人いっとるそうですよ。まあ、その人たちにそういうようなお知らせがあるはずはなかですもんね。
けれどもです、ね、その、僕が今言ってるんですよね、自分の周囲の人たちにも、信心を分からしたい、そういう願い、熱意を持っておるわけです。ですから自分が、合楽との縁を結んでおって、徹美君がそういう信心にもし導くことがでけたり、はあ、なるほど中村君は違うと思いよったら、金光様の信心するとばいねと分かって、この人についてこうごとなったたらですね、そこにまた、縁がいわゆる重なった縁、ね、十円、二十円、三十の縁になっていくわけなんです。そしてこれが五十の縁にまでなっていくときにです、お徳です。五十というのがありましょう、仏教に、ね、あれは極楽行きのけいこということなんです。
ね、いわゆるほんとにこの世で極楽の心持も開けれるようなおかげにもなってくる。自分ひとりの信心がです、ね、一重から二重、二重から三重、と次々にこう縁を重ねていくようなですね、その基にもならせて頂こうというような信心になると、五重塔がふえる。
いわゆるこの世を通して、有り難い勿体無いという生活を送れるようなおかげが受けられる。
ね、もうほんとにですね、もう人間心じゃらじゃいかん、ほんとに信心を一筋におかげいただかにゃいかん。もうたまに、あのめったに行かんのですけれども、今日は久し振りで私は、おじいちゃん達の部屋へ参りました。
ね、もうそれこそ、この冬、ずーっと床が敷きっ放しであったのが、今日はもうえらいさっぱり、ほんとにもう今日はね、先生が来るけんち、?お掃除までさせて下さったち。も、今日、今お掃除が出来上がったところじゃった。そこで、あの今日はだれだれさんがお饅頭を持ってきてくださった。昨日だれだれさんが、こういうおせんべい、持ってきて下さった。さあ、私食べろと、お茶を飲めというて熱いお茶を入れてくれる母が、その出してくれるんですね。ほんとに極楽というのはこれだろうと私は思うのです。
ね、私が、なでたりさすったりせんけれども、神様が、そうさせて下さるのです。
ね、ああやさあ、とこう言わんでも、私が手づからこうしなくても、ね、今日もこれは立派なあのシクラメンの、が、綺麗なシクラメンが離れの部屋に入って行ったら、それがこれは合楽かどこかの人じゃろう、あのおじいちゃん達の部屋に持っていってくれち、あのお供えを頂いた。
次々とだれかが花を持ってくる。次々と甘いものであり、ね、いうならそれこそ、甘か、海山川のくさぐさの物がです、あそこの一部屋に集まっていく。
ね、そこになら、両親達が長年信心をさせて頂いた信心の徳がです、も、この世極楽のおかげを頂いておるんだというふうに、私は思うのです。
それをなら、私がするんのじゃない、ね、神様がそういう働きをして下さる。ね、若いときにしっかり、いわゆる苦労というか、修行さして頂いて、しっかり徳、基礎を作らせて頂いて、その徳の基礎の上に私がおかげを蒙った。
ね、ま、いうならばひとつのそれは、ま、一つの手本であり、見本なんです。ね、どうぞ一つおかげを頂きましてですね、本気でその頂いた縁をいいよいよ生かして、それをお徳の受けられる信心の基礎になるような信心を、目指さしてもろうて、おかげ頂かなければならん。
縁なき修行は度し難い、私はお道の信心はそうじゃないというふうに今まで説いてきた。けどもおんなじこと、やっぱり仏教の言葉も、確かに縁無き修行は、いくら金光様でも仕方がない。ね、けれどもです、一度縁ができると、テレビの、で、見たり聞いたりしたことだけでももう縁が出けておる。ね、そこに助かっていく縁がこう生じてくるようにですね、なるほど仏教的にいう、袖すり合うも多少の縁である。その縁が、ね、いよいよ有り難いことへ有り難いことへと、ね、五十のおかげを頂けれるような、私は信心に進めていけれるところにです、ね、本気での一つ信心、どうぞ信心しておかげを受けてくれよというのはそういう信心のこと、それがみんながこちらの方向にむいとるのに、自分だけ向うの方向を向いてる、ただ、おかげ、おかげの信心に終始したんではです、そら縁はあっても、良い縁に育って行かんのです。どうぞ。